インドネシア ジャカルタでの就労日記

ジャカルタ生活を通しての日々の雑感

エックハルト・トール ニュー・アースを読む その2

宗教は人々をまとめるよりもむしろ分断する力となってきた。
 生きとし生けるものはひとつであるという認識を通じて暴力や憎悪に終止符を打たせるのではなく、もっと激しい暴力や憎悪を引き起こし、人間同士を、異なる宗教を、さらには同じ宗教の内部までを分裂させたのである。
 宗教はイデオロギーになり、人々が自分を同一化させ、間違った自我意識を強化しようと試みる信念体系になった。
 人々はこの信念をよりどころに自分が「正しく」て相手が「間違っている」と断じ、敵を、「他者」「異端」「間違った思想の持ち主」と呼んだ。
それによって自分のアイデンティティを確立しようとし、対立者の殺害すらもたびたび正当化した。
 人間は自分の姿を象(かたど)って「神」をつくった。
 永遠、無限、名づけようのない真実は、「私の神」「私たちの神」として信じ崇拝すべき偶像に堕落した。


だが――宗教の名ではびこってきたこのような狂気の行動にもかかわらず――それでもなお――核心部分では各宗教が指し示した真実が依然として輝いている。
どれほどかそけき光であろうとも、何層もの歪曲や誤解を貫いていまも輝き続けている。
ただし人は自らのなかにその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。


 歴史を通じて少数ながらつねに意識の変容を経験し、すべての宗教が指し示すものを自らの内に発見した人々がいた。
 彼らはこの概念化できない真実を表現するために、それぞれの宗教の概念的枠組みを利用した。



 主要な宗教のいずれにも、このような人々が起こした「宗派」や運動があり、そこでは本来の数えの光が再発見されているだけでなく場合によってはさらに強く輝き出した。
私たちは今すぐ進化しなければならないより抜粋



20世紀は戦争の歴史だと表現されますが、私たちは野蛮で残虐で自分勝手な一面を確実に持っています。
それら野蛮人が体系化した宗教という名のイデオロギーが、上記とは反対の概念である、愛、思いやり、共生などにつながるはずがないのは、普通に考えれば分かるはずです。


違う言い方をすれば、人類の最初の花である、釈迦やイエスの本当に伝えたかった価値を野蛮人が理解できるはずがないのです。
それらの教えは、時の統治者が国を治めるために、ツールとして用いてきただけというのが、本当のところでしょうか。


歴史を見通さなくても、自分の人生の成長過程をみれば、物事の本質がわかるには知識や経験が必要で、自分が成長することにより、物事の捉え方、価値観が変わってくるというのは理解できると思います。


人類は、過去に稀にみる進化し開花に至った花達が、唱えた普遍の価値を未だ理解できない状況にあるのでしょう。