インドネシア ジャカルタでの就労日記

ジャカルタ生活を通しての日々の雑感

エックハルト・トール ニュー・アースを読む その3

スピリチユアリティと宗教


新しい意識の高まりのなかで、既成宗教はどのような役割を担うだろう?
多くの人々はすでにスピリチュアリティと宗教の違いに気づいている。
信念体系――自分が絶対的真実だとみなす一連の考え方――は、どのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしない。
それどころかその考え方(信念)と自分を同一化すればするほど、自分のなかのスピリチュアルな面から切り離されていく。
「信仰心篤い」人たちの多くはこのレベルに留まっている。
思考を真実と同一視し、その思考に自分を完全に同一化しているので、自分だけが真実を知っていると主張するが、実は無意識のうちに自分のアイデンティティを守ろうとしているだけだ。
この人たちは思考の限界に気づかない。
自分の行動と信念に完全に同意しない人間は間違っていると決めつけ、そう遠くない過去には、相手を殺害することも正当化されると考えていた。
いまでもそう思っている人たちがいる。



新しいスピリチュアリティ、意識の変容は、たいてい制度化された宗教の外で起こる。
思考と概念に支配されたこれまでの宗教でも、その一部には必ずささやかにスピリチュアリティが宿る場所があった(宗教組織はそれに脅威を感じ、多くの場合、抑圧しようとした)。
しかし宗教構造の外側で生じたスピリチュアリティの大きなうねりとなるとまったく新しい現象で、これまでは、とくに西欧では考えられなかった。
西欧文明はすべての文明のなかで最も理性を重視する文明だったし、
スピリチュアリティに関しては事実上キリスト教の教会による独占体制が確立していたからだ。
教会の許しもなくいきなり立ち上がってスピリチュアルな話をしたり、スピリチュアルな本を出版したりすることは不可能だったし、そんなことをしようものならたちまち沈黙させられただろう。
ところがいまでは教会や宗教のなかにも変化の兆しが現れている。
これは嬉しい兆候だ。ヨハネ・パウロ二世によるモスクやシナゴーグ訪問もささやかではあるが嬉しい開放への歩みだった。



既成宗教の外側で盛り上がってきたスピリチュアルな教えの影響に加え、古い東洋の智恵が流れ込んだことも大きな力となって、伝統的な宗教の信者にも形や教義、硬直した信念体系へのこだわりを捨て、スピリチュアルな伝統に隠されていた深さや自分自身の深さを発見する人たちが増えてきた。
この人たちは自分が「スピリチュアル」かどうかは何を信じているかではなく、どんな意識の状態にあるかによって決まることに気づいている。
そしてそれがその人の行動や人間関係を決定する。

~第一章 私たちは、いますぐ進化しなければならない 宗教とスピリチュアリティより抜粋~


既成宗教は一言で言えば、「洗脳」でしょう。
自己を精神的に成長させる面があるのも否めませんが、特定の考え方、因習にしばりつけ自我を強め独善的にしてしまう。
現在、一部の宗教では、政治、イデオロギーと結びつき、票田と化してしまって、本来の考え方とは、ほど遠いものになっているのが見受けられます。


また上記の引用にあるように、現在は、西洋人の中でも、ヨガや瞑想がブームになりつつあり、既成宗教とは反対の、自分の意識状態を見つめなおし、特定の既成概念を取り払い、精神的に自由になろうとするムーブメントがあるように思います。